Last Updated on 7月 8, 2025 by cometeJP_gk

- 「巳年」と、60日に一度やってくる「スーパー巳の日」と呼ばれる「己巳」の日、さらに「一粒万倍日」が重なるトリプル開運日であった2025年6月29日に聖徳神社へ参拝しに行ってみました。
- 久しぶりに当別神社と聖徳神社に来ましたが、相変わらずとても立派で、堂々たる佇まいに感嘆しました。
- 今回は、そんな当別神社と聖徳神社に夏の様子についてご紹介します。

目次
当別神社について



基礎情報
- 所在地:〒061-0222 石狩郡当別町元町51-12
- 電話番号:0133-23-2546
- FAX:0133-23-3690
- 例祭日:8月15日
- 祭神:伊達邦直之命(だてくになおのみこと)
伊達邦直について
伊達邦直とは、天保5年9月12日(1835年11月2日)から 明治24年(1891年)1月12日)に生きた、仙台藩一門・岩出山伊達家領主であり、明治維新後は北海道開拓に身を投じ、現在の当別町基礎を築いた人間であります。
亘理伊達家十五代で有珠郡伊達村(現・伊達市)開拓の伊達邦成(くにしげ)は実弟とのことですが、神社の御祭神に生身の人間が祀られているのはかなり珍しい事例かと思います。
そこで伊達邦直がどのような経緯で当別神社に祀られるようになったのか調べてみました。
経緯
伊達邦直は、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に参加した宗藩の命により官軍と交戦し、山形で勝ち戦功を上げたが、味方の多くは官軍に下った為、敗れ朝敵とされます。
戦後、それまで一万四千石あった禄高を六十五石に減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪されました。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられますが、邦直は彼等が路頭に迷う事を憂い、家老の吾妻謙らと相談し、私財を処分する資金で新政府の推し進めている北海道開拓を太政官に願い出ます。
願は許され明治2年石狩国空知郡(現在の奈井江町)の支配を命ぜられ、空知郡では開拓の見込みが立たないことから、海岸近くの厚田を望みますが断られます。
叶わず再度家老の吾妻謙が太政官に申し入れたところ、「何を言うか。朝敵が不届き千万」と吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末でした。
しかし、交渉の末、ようやく厚田郡繋富(シップ・石狩市厚田区聚富)の荷揚場を借用する事が認められます。
ところが、繋富は土質が悪く砂地が多いため作物は育たず、船で運んだ食糧等も着かなかったため、一同は困窮を極め開拓使に嘆願したところ、同地を視察に訪れた開拓使長官東久世通禧より開拓地を移ることを許されます。
吾妻謙等に代替地の調査を命じたところ、当別が適しているとの結論に至り、開拓使より許可を得ました。
開拓使当別詰所設置に伴い邦直は同年7月に開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられ、明治14年2月26日准陸軍少尉に任命、3月には開拓七等属兼務となり従六位に就かれています。
明治15年には所属が陸軍省となり、1885年(明治18年)5月陸軍屯田兵少尉、以後も各開墾地の見分を行うが、1891年(明治24年)1月逝去しています。
翌年8月旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られる事となったとのことです。
境内の様子
手水舎

夏ということもあり、当別神社の手水舎はかなり可愛らしく装飾されていました。
千羽鶴と、風鈴がたくさん飾られていました。

手水舎内も水が落ちるところにビー玉の受け皿が置かれていたり、とてもお洒落な感じに施されており、色々と工夫がなされていました。
忠魂碑

当別神社は、忠魂碑を含め、たくさんの記念碑や石碑が設置されており、なかなかここまで石碑が多い神社は珍しいと思います。
土俵

当別神社は、阿蘇公園が隣接されており、さらに立派な土俵まで完備されています。
かなりきれいに整備されている屋根付きの土俵は道内でも大変珍しく、昔は大相撲当別場所も開催された由緒ある土俵となります。
どのようなときに使われているか調べてみると、主に例祭日(8/15)に相撲大会を行うことがあり、2025年では5年ぶりに相撲大会が開催されるようです。
相撲大会では、子どもから大人まで参加OKで、参加者にはお米や商品券など豪華参加賞があったりするそうです。
当別神社の境内にある聖徳神社について

今回の目的の聖徳神社です。
当別神社の境内の中にあり、御祭神は聖徳大使となり、かなり珍しい神社となります。
御朱印は、当別神社でもらうことが出来るようですが、宮司に聞くと、貰えないこともあるようで、若い神職に尋ねるのが良いそうです。
聖徳神社は、もともと別の場所で当別大工組合がお祀りしていた社を大正の終わり頃に境内に移設したとのことです。
ぜひ、当別神社と聖徳神社は、とても力を感じる神社でして、何か大事な時は参拝しに来てみるのも良いと思います。
